認知症の叔父がいます。
年始のご挨拶で、いとことLINEでやりとりがあったのですが、
実家(新潟県)の雪ヤバい
父のボケ方もっとヤバい
と一言ありました。
(さすが血のつながったいとこ…)
そういえばお年寄りとのやりとりや
認知症の方との接し方については、
常々思うことがありました。
私はお年寄りの方に対して、
子どもに話しかけるみたいな調子でお話しする事に
違和感を覚えるのでしません。
(昔は何もかんがえてなかったけど、今はあえて。)
すごく仲が良い方がたまたま高齢者だとか、
両親や祖父母が相手であれば好きにしていいと思うけど
26歳くらいのとき。
老人ホームにメイクのボランティアで行ったとき、
そちらの施設のおじいちゃん・おばあちゃんのことを
「わ〜○○ちゃんかわいー!よかったね〜!」
まるで小さい子に接するみたいな調子で
扱っている様子を見て、もや〜んとしました。
なんだろう・・この違和感。
そんなふうに思ったままスルーでしたが
その後に友達の結婚式・披露宴に出席した時に
はっきりしたことがあったんです。
その日の結婚式の主役✨
である新婦さんは当時、
老人病院で働かれていました。
(高齢者向けの介護施設と病院が合わさったところ)
そこで新婦の上司の方が
スピーチでこんなことを言っていたんです。
彼女の姿勢に私はハッとさせられたことがあります。
彼女は常に、患者さんたちへ掛ける言葉が「丁寧語」です。
ある時、なぜ砕けた口調で話しかけたりしないのかを
きいてみたところ、
先輩。
患者さん達はみんな年上の方々で
私達には想像出来ないような人生を
歩まれてきたと思うんです。
たくさんの上司を従えてきたおじいちゃん、
何人も子育てしてきたおばあちゃん、
今一人で何も出来なくても、
認知症だとしても、
彼らは本来尊敬される存在だと思うんです。
…というのは、母からの受け売りなのですが
私もそう思うので、、
丁寧語で接しています!
心の中で荒ぶることも当然ありますけどね!
って答えたんです。
聞いてて、私が介護施設で感じた違和感の正体が
少し見えた気がした。
ボケちゃったら子供といっしょ
なんて言ったりもするようですが、
魂でみれば違います。
その年齢に至るまでの経験がある。
魂は全部見聞きしてきたことをわかっている。
認知症であっても、植物状態であっても、
肉体がいうことを効かないだけで、
いかなる時も魂はぜんぶ見聞きしています。
私達は、魂が本当の自分。
肉体が自分ではないんです。
この現世(地上)では、物質がなければ
行動できない。
意思疎通できない。
表現できない。
だから肉体に宿っていますが、
ということは、老いる事も
認知症を患うことも、植物状態も、
肉体の問題であり、
その中身である魂はずーーーっと起きてるし
生きてるし
死なないし
見聞きして経験しているんです。
車に例えればわかりやすいのですが、
車の運転席に乗ってすべて操るのが自分です。
つまり、魂。
道から逸れたり、落ちたりしないように
バランスをとったり、
危険を察知したらよけたりする
ハンドルが精神。
そして、車が肉体です。
ずーーーーーーーっと同じ車(肉体)に乗り続けてたら
劣化してだんだんエンジン(心臓)の調子が悪くなったり
タイヤ(手足)の調子が悪くなったり
ボディ(肌)からツヤがなくなったり傷ついたりします。
認知症の場合は、車がぶっ壊れて、
ハンドルは右に切ってるのに
左に進んだりしてしまって
運転手も「ああーーどうしたもんかね」って
なってるんです。
けど運転席からちゃんと、見てるし、聞いてる。
その人が人生で得てきた経験も感動も
全部持っている(アカシックレコードに刻まれてる)。
植物状態であれば、
運転手は動かなくなった車の中で
「車(肉体)から出られる(死を迎える)まで待つ」
という状態で外の様子を全部見聞きしながら
生きているんです。
(たまに奇跡が起きて車がまた動いたりもするけど、それにも霊界の意図がある)
そういうことを知っているのと
知らないのとで、
きっと接し方は変わってきますよね。
自分の親とか、尊敬していた人が
ボケていく姿はつらくて見ていられない気持ちも
ありますけど、単純に
肉体がバグってるだけで、魂はきちんと存在していて、そこで経験と感動をしている
って思えれば、見方も変わってくるかもしれません。
最後に私の心の恋人・煉獄さんからこの言葉をお借りしましょうか。
老いることも死ぬことも
煉獄杏寿郎
人間という儚い生き物の美しさだ
老いるからこそ
死ぬからこそ
たまらなく愛おしく尊いのだ