自死した人のその先はどうなっているのか

人を殺したり自殺した人間は、
天国には行けず地獄に落ちる

‥というのを聞いたことがあるかもしれません。

 

わたしには自死した家族がいます。
中学2年生、お正月が終わって少しした頃です。

亡骸を目の前にした時、もうそこに完全に
魂がないのがわかりました。

 

人間の死体を見るのはそれが初めてだったけど、
「魂が宿っていない器だ」と、とても感じた。
心底「命ってなんだろう」と思った。

不思議と涙は出ませんでした。

目の前に、動かない本人がいるのに
死んだ実感がなかなか湧かず、
「どこかで生きている」という
実感のほうが強かった。

 

しばらく時が過ぎた頃に、

いつも居た所にいないこと、
いつも聞こえていた声がしないこと

そこに改めてハッ!と気付いた瞬間がありました。
そのときになってようやく
「ああ、もう二度とこの世で直接会えないんだ」
と寂しくて突然涙が出たのでした。

 

けれど、その後も目を閉じると
いつも座っていた場所にいる様子が浮かんでいました。

そこにいる姿は生前と変わらずニコニコしていて
私の姿を見ると、とっても嬉しそうだった。

妄想かもしれないけど、
ありありと心のなかにその光景が映し出され、
結局それは大人になってもずっと続いていました。

 

そしていつしか、私も
今のこの霊媒の道に進むことになります。

はじめて霊視鑑定を受けたくらいの時期に
自殺をした人について聞いたことがあります。

その時は
「自殺した人はドロドロの凄まじい姿で現れてくる」
と教わり、自分の脳裏に浮かぶ自死した家族の姿との
違いを感じつつ
「そうなんだ〜」
とストレートに受け取りました。

けど、その後に霊視が出来るようになってから
自殺した家族と交流してみても
別にドロドロの姿ではなかった。

ここ数年はではもう、
再生のフェーズに入っているのかな?
あんまり姿自体が浮かばないのですが、
霊視しても「遺影」みたいな感じでみえて
動かないようになってきました。

 

霊界は何層にもなって出来ていて、
鑑定中の状態より更に深い瞑想状態に
入ると叡智だらけの光の世界のような場所に
行くことができます。

 

そこで守護霊様よりもっと研鑽された
エネルギー体との交流することもできます。

宇宙人もいます。
過去も視えるし自分の未来もみえてきます。

 

そしてそこの奥深くで
わかったことがあります。

それは、

自殺した人が地獄に堕ちたり
永遠の苦しみを味わうことはない

ということ。

 

自分で命を断つことは、もちろん褒められたものではないです。
けれど、だからといって

神様はしたことを責めない。
怒らない。
罰を与えない。

神様は間違いなく、
分け隔てなくすべてに
愛を与えてくださっている。

神様とは、そこらじゅうに溢れている気そのもの、
愛そのもの、宇宙そのもの、自然そのもの。

そして魂には終りがありません。
だから

たとえ自殺をしたとしても、
そこでその人は終われないんです。

 

死んだ! って思っても、肉体がなくなっただけで
今かんじてる「わたし」はそのまま死後も続きます。

自殺した人が地獄に堕ちるといわれるのは、そこの仕組みです。

肉体という檻から解放されたのに、
自分の魂に安息が訪れない苦しみのことを指します。

魂が生きる道を肉体に宿っている間に
みつけるまえに自分で人生を閉じてしまった。

だから余計に苦しいんです。
その様子が地獄。

言い換えれば、肉体が在る間でも
自分の魂の声に従っていきることが出来ず
辛く、苦しく、常にがんじがらめになって
生きている人は地獄にいるのと同義になってきます。

しかし、そんな地獄と呼ばれる状況の中にいたとして
天命を全うした後でも

好きなものは、好き。
愛しい人は、愛しい。
守りたい人は、守りたい。

これはかわらないんです。
生きてても死んでても、一緒なんです。

 

だから私の場合、
自死した家族が霊として現れていたときは
いつも喜んでいたし、
いつもどおり笑っていました。

それは生きてるときと変わらず
苦しみの中にも愛があるからなんです。

苦しみを抱えながらも、
愛を現すことは出来る。

つまり、苦しみの中にも感謝はできるし
魂とはどんなことにも結局喜びを見出すもの。

 

自死した人の中には、本人が強い怨念とか
思い込みをもっているせいで
ドロドロの本気で怖いおばけみたいに
なってる人もいます。中には。

けど、それは当然全員ではありません。

そして、例えドロドロになっていたとしても
神様は例外なく全てに救いの手を差し伸べているし
決して地獄に落とすつもりでそうしたわけではないのです。

結局、本人次第。結局、魂次第。ていうこと。

 

昔のファミコン本体でプレイするドラクエ。
あれはとっても人生に似ています。

ファミコンにはリセットボタンとオンオフのパワーボタンの2種類があります。

パワーボタンをオンにして、ドラクエをスタートするのが
人生の始まり。

最初は弱いけど、
傷つきながら経験値をためて
レベルが上がり成長していく。

それまで出来なかったことが少しずつ
出来るようになっていく。

 

共に旅する仲間を自分で決めて
付き合っていく。

色んな人に出会い、
色んな国で見聞を広めて
様々な人生を交錯させながら
各々の運命に立ち向かっていく。

そして迎えるのがゲームクリア

エンドロールが流れている時が
私達の人生の終わりの時です。

 

けど途中で・・・・
ファミコン本体のリセットボタンをポチっとすると
そこで全部終わります。

容赦なく最初からスタートです。
ゲームならセーブが出来ますが、
人生にはセーブがない。

リセットして途中からやり直すことは、できない。

途中リセットすることは
自分自身(魂)の経験としては残りますが
ゲーム(人生)としてはまた全て0からやりなおし。

リセットボタンは、そういうところが
自死に似ていると感じるのです。

 

リセットボタンを押す時の状況は
人によって本当に色々と違う。

 

リセットボタンを押すために
ファミコン本体ごと
ぶっこわす人もいるかもしれない。

酔っ払いすぎたとか憑依がひどくて
「あれっ?」て軽くリセットボタンを
押してしまうこともあるかもしれない。

リセットボタンを押すことが
全ての人のためになると
信じて疑わずに押す人も
いるかもしれない。

いろんなシチュエーションがあって、
その人がどういう気持ちでそこに至ったのか?

それ次第で、0になった時に違いが出ます。

 

けど、先にもいいましたが
自殺したとしても神様はそのことを責めたり
怒ったり、罰を与えたりはしないんです。

 

自分の家族や大切な人を亡くした時、
きっと自分を責めたりその方の死後の
行く末を案じたりすることも
あるかとおもいます。

宇宙の法則でいえば、死後に
咎められたり地獄に落とされたり
することはありません。

だからそこだけは、安心してください。

 

霊視鑑定でのご依頼で

「なぜあの人は自死を選んだのでしょうか?」
「どうして?」

という質問をされることもありますが、
個人的にはそういう質問をするよりも
それを受けて自分はどうしたいのかを
先に問うてほしいです。

 

生前、実は悩んでいたらしい とか
鬱だったらしい とか
本当は陰謀に巻き込まれたらしい とか

 

それを知ったところでそれが何になるのでしょうか?

本当にそれが自分の魂にとって必要な事であれば
知る必要があるという判断があれば、
ちゃんと教えてもらえますが、そうじゃない場合は
「あなたはどうしたいのよ」って逆に言われてしまいます。

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