初めて一人旅で屋久島に行った時、
私はとても誇らしい気持ちでいっぱいでした。
なぜなら、屋久島は
呼ばれた人しか行けない場所
とも言われるところだから。
「そんな場所に、降り立つことが出来たワタシ( ー`дー´)キリッ」
と、何だか自分が「選ばれし者」になったような、自分すごいんだぞ!みたいな上から目線な気持ちになっていました。笑

▲2009年、屋久島に初上陸。この時自分の中で「空港」の概念が変わりました。
もちろん、屋久島での経験はとても素晴らしいものでした。
一度も雨に降られることもなく縄文杉のもとにたどり着けて、ますます
屋久島に呼ばれたワタシ!
縄文杉に呼ばれたワタシ!!
という気持ちがマシマシになっていたと思います。笑

▲縄文杉。当時のガラケーでの撮影なので、今見るとこんなもんかぁ〜ってなってしまうけど、とっても優しくて朗らかで美しいエネルギーに溢れかえった場所です^^
この当時、私はものすご〜〜〜〜〜く「勘違い引き寄せ」「勘違いスピリチュアル」の申し子みたいな生き方をしていたと思います。まだ「霊視」というものに出逢って間もない時期です。
この当時の自分の顔を写真越しに見ると、「選ばれた私」というドヤりに溢れてる時とそうでない時の顔が、
まっっったく違います!!
これはすごくわかりやすい現象。
憑依されてるからです(;^ω^)
「選ばれた私」「呼ばれた私」、ドヤッ!ってなっている時のわたしは、土台の部分が不安定なところに憑依されていて、気が大きくなっているようです。こわっ
※憑依には肩や頭が重くなって気分が悪くなる憑依と、気持ち的に波が激しくなる躁鬱っぽい雰囲気の憑依があります。
その後も、毎年屋久島に遊びに行っていましたが、行くたびに
「また神様に呼ばれた私〜♡」
「他の人と違って特別な私〜♡」
っていう、ドヤりが増していきました。
マジで今ならぶん殴りたくなるような勘違いなんですが、気づけなかったんだよなぁ
けど真実は、
誰も私のことなんて呼んでないです。
神様の視点からしたら
君が勝手に
来たんでしょ!
私はただ
門を開いただけ
なんですよ!!
「君は選ばれしものだから私のところに呼んで特別な運を授けてあげよう」
みたいな事は、起きていません。
むしろそんな呼ばれ方する人は基本的に居ないと思っていいはずです。
なぜなら、みんな今すでにもう特別な存在だから!!!
誰一人として、もうすでにかけがえのない存在で、
選ばれし者だからこそ今そこに存在しています。
今これ読んでくださってる方も私も、等しくみんなそうなんですよ。
そこのところを履き違えて、「自分は特別」、という気持ちで「神様に呼ばれた」といった言葉を使うと、激しく勘違いします。
どんどん本質から離れていくし、それを感じている時点で、自分は優れていて周りは劣っている、とか、自分は呼ばれたから勝ち組、そうじゃない人は負け組、という意識になりやすい。
そういう勝ち負け的な考えが根底にあるから「呼ばれた」「選ばれた」にうるさくなる。

▲これは屋久島二度目の時にみた夕陽。
「神様に呼ばれたからここにいる」
という言葉は、その本質に気付いていないうちに使うのはやめたほうがいい。
なぜなら、自分が優れている・勝っていると勘違いするから。
これが私の10年かけて今たどり着いた1つの結論。
屋久島でも伊勢でもロンドンでもセドナでも、まぁ別に「呼ばれた」と使ってもいいんだけど、その意味の本質をもっと真剣に考えてみることが重要です。
素晴らしい奇跡の連続の結果が今ここにある。
そういうことを本気で実感して感謝が溢れた上での「呼ばれた」を使うのが適切だと思う。
- 五体満足で
- 事故にも病気にもあわず
- 別の場所からそこまで移動する時間と体力があって
- その日その時そのタイミングでそこに立って
- 『今』、喜びや幸せを感じられる
っていうことに、心から感謝して、最上の喜びを神様や
その土地や宇宙に対して表現する言葉のうちの1つとして
「神様に呼ばれた」
があるなら、それはそれでもいいと思うんですよ。
「呼んでねーわ!」って思われるかもしれないけど(笑)
だから自分の心が
「ここに来るまで数え切れないほど
感謝したいことの連続が積み重なって、
今日こうしてやってこれました。
これを貴方様(神様・宇宙)に
呼ばれたと言わずしてなんと
言えばいいでしょう?
ここにいられる事は与えられた奇跡です。
毎日奇跡を与えられています。
本当に感謝しています」
っていうくらい謙虚な気持ちで居られる時に
「呼ばれてやってこれました〜〜♡」
とかを使ってみてください^^;
呼ばれたっていう言い方をしても、全く違和感もなく『ほんとだね〜^^』っていう場合もありますからね。それはそこの本質の違いなんだと思います。
自分の中の勝ち負け意識を自覚せずに呼ばれた選ばれたっていう「自分は特別」扱いをするようになっていってしまうと、過去の私みたいに、ドヤ活にばかり力が入ってしまってスピリチュアルの本質からどんどん遠ざかっちゃうよ。
シンプルに、
行きたいと思った=呼ばれた
です。
自分が放ったものが結果を生んだ。ただそれだけ。
神様もご先祖様も守護霊様もみんなその存在は自分の内側で感じるもの。
「呼ばれた私。ドヤッ」の特別感を感じて満足してる時点で、自分の神様をまだ信じていない・感じていないっていうことです。
外側のことに引っ張り回されて、変な憑依されたり勘違いさんになったりするより、もっと手っ取り早く宇宙や神様と繋がっていってください^^
そのためには自分の内側。自分の感じるもの。自分の心。自分の魂の声をちゃんと聴いていくことです。
というわけで今日もお読みいただきありがとうございました。

オマケ。屋久島でみた至近距離の野鹿。
「ほんとにバンビみたいな柄してる!」と感動しました。
鹿が増えすぎて野山がツルッパゲになってしまってるので
駆除して鹿肉を観光名物として売り出してるんだ〜
なんて話しを、民宿のおじさんがおしえてくれたなぁ。
(鹿肉より猪肉のほうが個人的には好きです)